山納銀之輔

自然界に寄り添って生きろ!全てを失くしても大丈夫!世界は大きい!

020 食中毒になり8日間生死を彷徨い人生観が変わる 〜俺がお金を捨てたわけ

参ったぜそれ。と思って途方に暮れてた。

 

ミワちゃんは「もう駄目、これ。どうしようもない」つって一足先に森ん中に住んでた。 森ん中に引っ越しちゃってた。そのカフェにいられねえって。

 

仲間に率いれようと説得されて、俺の味方についたせいで、脅迫されたって。財布の中の金を全員に囲まれて全部取り上げられたって。その後に続く話になるけど、パソコン盗まれたり携帯取られたり。殴られて怪我したり、刃物を振り回されたり、囲まれて車に載せられそうになったりしてどんどんエスカレートしてった。

 

とにかく俺を弁護してくれようとした人達は、巻き添えくらって気の毒だった。

遠いところから俺の村づくりに遊びにきたのに、奇声を上げながら取り囲まれて、軟禁されて、空港に送り返されちゃったりね。 あっという間。誰も味方がいない状況になった。俺、よそ者だし。そのカフェ自体が宗教団体みたいな感じだった。もういいことばっかりやってるからあの人が言ってることは絶対だみたいな。宮崎のマザーテレサとか言われて。俺もそう思ってたわけだけど。

 

みんなが逆らえない理由はまだあって、このカフェに例えば海の塩を炊いて塩を置かせてもらっているとか、手作りのバジルの葉っぱのハーブティーを売らせてくれてるとかみんなの手作りの物を販売してたから、そういうみんな恩があるわけ。だから向こうの味方につかないと。

生活がある。子供もいたりすればなおさらだよ。

 

だからもう残念なんだけど。 不本意と思って来てくれた人はたくさんいたんだけど俺と会うことさえ許されない。何も言えない。誰も逆らえない。

 

そこでまた俺、人生 3 度目のどん底で。今度は涙が止まらなくなっちゃってさ。毎日泣いちゃって。なんかね。もう俺も山に入ろうって思って。で、ミワちゃんの所行ったらすっげえたき火して、どんぐりの木の下で気持ち良さそうに 1人でお湯沸かしてるんだよ。コーヒー入れて「飲む?」なんつって。あれ、すげえ楽しそうじゃん、ここって思って。で、 そこ座ってコーヒー飲むんだけど。やっぱり黙ってコーヒー飲むと涙出てくるんだよね。

 

もうそれが 42 歳の誕生日の次の日。

 

ミワちゃんはその時骨折した状態で山にいたから。俺、水汲みしたり、川の洗濯を手伝ってやったりしてた。で、そこらへんに落ちてた水タンクを洗って綺麗な湧き水汲んできて飲んだの。そしたら食中毒。

 

もう吐いて下痢して熱出して完全に動けなくなってもうろうとなっちゃった。意識が。でも医者はいけないし。道具から何から何まで全部奪われちゃったから。そのカフェ立ち入り禁止みたいな。だから俺の物がない。所持品を取らせてもらえなかったから。

 

山での生活は、寝るときは動かない軽ワゴン。それをどんぐりの木の下に置いてた。開拓のために買った重機で運んで。夜はそこで寝て。生活は外。ほとんどね。

 

それで、8 日間苦しんで俺そのとき本当に死ぬかと思ったよ。 あんなに首吊っても駄目だった俺がここで本当に死ぬんだと思った。このまま衰弱して死ぬんだって。いろんな変な夢とか昔のこととか思い出しながらだんだん弱っていった。

 

不思議なことに前の嫁さんから電話きて、父ちゃんから電話きて元気か大丈夫か。虫の知らせみたいのあるんだろうね。

 

もうだめだと思って山に入った途端に食中毒だったから。そのときの恨みと悲しみと憎しみしかねえわけよ。それと執着。もうそれが、沸き上がってきて苦しくて。

 

もう涙は出てくるしどうしようもないわけよ。死んだほうがマシと思ったもん。本当に。 今度こそ。

 

でも高田馬場のじいちゃんや陰陽師に言われた寿命を信じてるから、死ねねえんだな。だったらこれはどういうことなんでしょうかね神様と思った。

 

で、8 日目に朝日に向かって立ちションしたんだよね。今でも忘れないよ、あの太陽は。なんて幸せなんだろうと思って。幸せが沸き上がってきちゃって。こんな幸せな景色と空気と山で、こんな幸せな今がある。本当全てに感謝しようと思ったんだその時。多分その時に熱下がって食中毒治ったんだろうね。俺らを陥れたその6人でさえ、こういう思いをさせてくれてありがとうと思ったもんね。

 

その時から、人生観が180度変わった。

 

恨みつらみから。 一気に沸き上がる感謝の気持ち。

その時、ニホンザルがどんぐりの木の上とまって俺らを見てて。イノシシがすぐ横を通る。 ニホンミツバチがブンブンきて全然逃げないで刺さないでずっといるわけ。これは野生の哺乳類として迎えられたと思ったな。

とにかく幸せが湧き出てくるんだよね。

恨みも何にもなくなった。 それですごい気分が最高なわけ。あ、これ何でも前向きにやれると。

 

それで竹で小屋作ったの。

ドラム缶風呂入ってるときに雨が降っても大丈夫なように、竹の屋根を作って、そっから雨樋も竹で作ってドラム缶風呂に水が入るようにして。

ドラム缶は、タイミングよくもらったんだ。

 

タイミングよくと言えば、白いご飯食いてえなあって言ってたんだよね。そしたらその日炊いたご飯が 届いたんだよ。米じゃなくて炊いたご飯が一升届いた。

近所の旅館でキャンセルが入ったんだって。キャンセル入った旅館のおばちゃんがここにおもしれえ人が住んでるって聞いてきたんだけど。って、持ってきてくれた。そのおばちゃんは地元の人だけどオーガニックとか関係ない生活してるから、そこのカフェに何の関わりもない人だったんだ。

 

それ全部おにぎりにして。大きいのが33個。そのおにぎり食いながら、やっぱ魚とか肉とか喰いてえな。畑がない今、捕まえて食うしかねえよな。と思いました。そしたら次の日に狩猟生活26年の師匠が現れた。昨日来た旅館のおばちゃんのご主人だったんだ。

 

この師匠との出会いがまた俺の人生を大きく変えてったんだ。

 

つづく

 

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去年の今頃、9月限定のスペインバルをやりました。美味しいものを食べると、どんなに辛いことがあっても頑張れる。

 

019  宮崎で5万坪の村を見つけるも...詐欺不動産屋だった〜俺がお金を捨てたわけ

そんな風に、俺の村づくりがやっと形になって、取材が来るようになって、テレビでは鉄腕DASH村が始まって、いよいよ世の中が変わるぞって思ってました。

 

そこに3.11。俺は運命のままに村を離れることになって、北海道から九州まで、全国を講演活動でまわりながら移住先を探して。たどり着いたのが宮崎県、5万坪の土地でした。

 

俺、3.11が人生2度目の全て失う体験だった。みんな親切に見えちゃったよね。みんな親切でやさしいなと思って、その土地の持ち主の不動産屋が言うには境界をちゃんと検査しないとって。手入れのしていない山だし広いから測量に時間かかるって。それに時間かかる、 1 年ぐ らい掛かるから、それまで勝手に開拓してやってていいわと。売れるようになったら来年売るから。それまで自由に、家賃も何もいらないから是非使ってよ。って。話はトントン拍子だった。

 

しかも、金額は 200万でいいってことになった。何しろ山だから土地のほと んどが急な坂で、後で考えればいったいこんなところどうやってゴルフ場にするんだって土地なんだけど、不登校の子供達のアスレチックにしようとか、果樹を植えようとか、どうやって金を生み出すかとか、アイディアはいくらでもでてきた。俺には目の前のどうしようもないぼうぼうの土地に、みんなの笑い声と笑顔がいっぱいで幸せそうな完成図がはっきり見えていたんだ。

 

だからね。いてもたってもいられなくて、すぐに「分かった。」って言って開拓し始まった。

 

開拓して道路作って絵書いてここにこうやってこういうの作るんだ。つっていろいろ作り始まったんだ、みんなで。

 

みんなっていうのは、そのときワークショップで人集めて宮崎中からいろんな人が来てさ。 県外からも来てくれた。アースバックハウスっていって、土のう袋を積み上げて家を造ったりした。

 

そのときにものすごい親切にしてくれてお世話になったカフェがあったんだよね。その土地の隣に建っているカフェだった。そこのオーナーがそのカフェで寝泊まりしていいよって。

 

その代わりここで山納さんのイベントやってくれない? っていう。そこはカフェっていっても結構広くて、ライブやったりできるような、広い、もともと植物園だった場所を改装した所でしたね。すごいいいことをしているカフェだったんだよね。オーガニックなことやったり、マクロビの料理が出てくるようなね。栃木の村では、マクロビの先生達やオーガニックの農業をしている人達と仲良くやってたから、仲間だって思ったよ。俺は肉を食うけどね。自然界を大事にするっていうところが一緒だった。

 

そのカフェで、手づくりで家を造るストローベイルハウスだとかアースバックハウスとか。 健康に良くてローンを組まないで家を造れる方法だとかってワークショップをやってた。だけど悪いから家賃 1 万円ずつ払うってミワちゃんも 1 万円ずつ払って住んでた の。カフェのにはアースバックハウスを建てて、その村には 3 軒の小屋を建てたんだよね。大至急村に引っ越さなきゃ行けない家族がいて、建築費は出すからって事情があって急いでいて、とにかく人助けだと思って、そうなったら俺らの住む場所は後回しだよね。とにかく急いでた。あっという間に、どっちの建物もあとは外壁のしっくい塗って電線つないだら終わりだったの。

 

そのときにいきなり地主がなんかいっぱいぞろぞろ変な人連れて来て追い出すんだよ。何それと思って。道路まで造ってやって。したらそこの固定資産税を 10 年以上滞納してて、人に売れないってことが判明したの。

 

県からも職員が来て、本当にそうだった。そんで聞いたらその土地は平成 17 年に車とか家とかを埋めて不法投棄して新聞に載ったんだって。1 面にでっかく。その不動産屋のご主人が逮捕されたんだって。何で近所の人言ってくんなかったのかなと思って。そんな一 面に載った事みんな知ってんじゃん。良い人間だと思ってたカフェのオーナーも実は知ってたんだ。でも開拓が終わる。そして同時に出てけって言われた。

 

その開拓は仲いい人 6 人でやってたわけ。地主はたまに見に来てた。そのカフェのオーナ ーも一生懸命俺を応援してくれたわけ。そんでそこに手伝いに来ている夫婦がいて、その夫婦はちょっと蘭の花の栽培で失敗して自己破産しちゃって。今から自分で家を造らなくちゃなんないって、ここに通って作り方を教えてほしいって手伝ってくれてた。

 

それと埼玉から避難してきた家族がいて、その人たちは少し俺に投資するって言って土地代も出すからここに住まわせてくれないかってきた。その家族は全然仕事できないんだけど、手伝ったりする。その人の仕事を探すのが仕事みたいな感じの人たちだったんだけどね。みんな最初はそうだよねっつってその家族に対してはゆっくり教えながらやったよね。その奥さんがひどいうつ病で、子どももずっと学校行ってないって。「こういう森ん中で暮らしたら幸せになれるんじゃないか。お願いします」なんて言われて「分かりました」って。一緒にそこ住もうって、その人たちの家をとにかく大急ぎで作ってたの。

 

そしたら、その人たちがみんなグルになってた。追い出そうとしてくるんだよね。

 

そのカフェのオーナーは自分の村づくりにしたかったわけ。そのカフェがいいことやっている、ここを私の土地にするって言うんだよ。カフェのオーナーと地主の奥さんは古い友達で。どうせ地主は固定資産税払えないんだから。 ついでに開拓まで終わって、県からの改善命令も俺らが終わらせてたから、俺さえいなければ全員の問題が一気に解決する。

 

で自己破産した夫婦はアースバックハウスに住み始めた。 ご主人の方は、村づくりのリーダーになるって言うの。

 

何の冗談かと思ったよね。終いには、栃木から持ってきた工具も材料も什器や何から何まで、「これから のボクらの村づくりに、ありがたく役立たせてもらうよ」って取り上げられて、俺は追い出されたんだ。何もかもあっという間だった。

 

俺さえいなくなったらみんなお互いにメリットがある。メリットがあるどころじゃなくて。 メリットある上に正当化できるから。俺が極悪人で勝手にあの所を開拓したとか言われて。弁解して説得しているうちに、何もかもなくなってた。

 

もうどうしようもない。 泣き寝入りするしかなかった。 だけど。

 

仲間だと思って一緒にご飯食べて酒を飲んで夢を語って、汗を流した仲間が全部グルだったなんて。

 

俺が極悪人で、無断で勝手にあの土地を開拓して、みんなをだましていたと言われた。周りもそれを信じた。

 

俺がバカだったのかもしれない。だけど俺は本当にみんなの幸せと夢を叶えることで頭がいっぱいだった。みんなのことを考えながらすごく急いでいた。だから夢の中でも、みんなのことを考えて家を建ててた。


俺はみんなのことが本当に好きだった。

 

つづく

 

 

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ドイツで習った鍛鉄(たんてつ)。美容室の仕切りとして作ったもの。(H19.7.3)

 

 

018 田舎の小さな村づくりが社会に影響を及ぼした 〜俺がお金を捨てたわけ

話は戻るけど、栃木の村づくりが始まって4年後くらいから、雑誌とかテレビの取材が来るようになって、世間的にも自給自足の田舎暮らしが注目されるようになって来たんですね。

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一回来た人達が家族とか友達を連れて来るようになって、山奥のコンビニもスーパーもないところに毎週のように東京から人が遊びに来るようになったんです。

 

村が盛り上がって来ました。近所の自治会の草刈とかゴミ拾いもみんなで参加して、じいちゃんばあちゃんは大喜びして、お茶を飲みに来たり、野菜を持って来たりして、田舎暮らしの知恵を教えてくれました。遊びにきた人も喜んでくれて、地元の人も喜んでくれて、でもヤギが迷惑かけるからチャラになるという毎日でした。

 

ちょうどその頃、新宿OZONEビルで、天然素材で素敵な家の作り方を教える講義をしたんです。そのご縁から村に遊びに来る人たちの幅が広がったんです。

 

化学物質過敏症などアレルギーの人達やマクロビオティックの先生、ヨガの先生、ローフードの先生、農業の先生、農学博士、いろんな人が泊まりに来るようになりました。

 

それまで俺は、衣食住の《住》で豊かな暮らしを提案する事が自分の生き様だと思っていたのが、だんだん変わって来たんです。

 

《衣》も《食》も、どれも一つ欠けたら、本当の豊かな暮らしは難しいんです。

 

《食》は自然農法とオシャレな里山料理を極めることにしました。《衣》は麻。たまたま栃木の粟野は麻の産地だったし、自然素材の建築を研究していて、昔の土壁をほじくると必ず麻がでてくる。子供の頃大好きだった『コンチキ号漂流記』でも成功の鍵は麻のロープでした。だから《衣》は麻で極めようと思いました。

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そして、栃木農業高校の授業で麻製品を作ったり、おおあさ自由学校で麻ひきをしたり、観光バスで人が来るようになりました。その栃木農業高校では、経済産業省の「低炭素杯」という研究発表で優勝して、その後も麻をテーマに5年連続優勝しています。

 

栃木の田舎の小さな村づくりが、地域や自然の力を借りて、少しずつ社会に影響を及ぼしてる実感がありました。

 

つづく

 

 

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017 35歳で結婚。しかしその後、3.11で村を失い…離婚 〜俺がお金を捨てたわけ

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一人ダッシュ村をスタートして35歳のときに結婚しました。その子は俺が30歳のときにどん底で落ちて誰にも相手にされなかったときに、そんなことどうでもいいって仕事を手伝ってくれた人でした。

「才能とか人柄が良くてみんな一緒にいたんじゃないんだ」って言って俺の味方になってくれた唯一の人でした。

 

それで一緒に村に住むことになって、それが村人1号。

 

村人1号2号は女性でした。その頃、東京の新宿OZONEビルで講師の仕事が来てたんですね。『自然塗装空間』という土壁やしっくいを売ってるスイスの会社の講師を頼まれて、土壁やしっくいの塗り方や特徴を教えていました。

 

そこの受付のきれいなお姉さんが「会社辞めて山納さんの所に住んでいいですか」って。彼女はアトピーで悩んでいて、週末うちに手伝いにくるうちに、うちにいる間はアトピーが治まってることに気づいたんですね。それでそのきれいなお姉さんが引っ越してくることになりました。「よし分かった。彼女のためにみんなでログハウスを作ろう」ってことになって、ログハウス作りのワークショップをやったんです。そのときに香川と岐阜から弟子がきて村人2号3号になりました。

 

ワークショップをやるようになってから人手は全然困らなくなりましたね。いろんな人が来て手伝ってくれるようになったから。

 

そしたら東北大震災。

 

ここで地震。ここで。やっとここまできたのに。

 

40歳でまたどん底です。

 

半年は、そのまま村づくりを続けたんです。でも、半年位して俗にいわれる被爆症状みたいなのが出始めたんです。血便、鼻血、目の奥の痛み、喉の痛み、だるさ、関節の痛み。

 

こんな良い場所ないと思って村づくりしてきて、やっとここまできた。もうこのままここでやっていきたいっていう気持ちがあった。たとえ寿命が縮んだとしても俺の選んだ土地で、すげえいい景色でこのままいけたら幸せだって思ってたんです。でも、身体の痛みが出始めてそれがものすごい痛みだった。毎日ふらふらして、調べてもらったら除染区域ですって。それで大家さんが土地を手放したいってなって。

 

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俺はそのころ仕事で入ったお金は全部村づくりにつぎ込んでたから一文無しだった。近所でさんざんみんなが引っ越し先を探してくれたけどどうもうまくいかなくて、どうしようかってときに、麻仕事を手伝いにきていていた人がこう言ったんです。

「山納さんのやってることを日本中に広める気はないですか。みんなに教えたらどうですか」って。彼女は結構有名なボイストレーナーで全国回ってたんですね。あちこち。それで「山納さんの講演会を、あちこちで開くからそれで自分のいい土地探したらどうですか」「分かった。そうすっぺ」って。北海道とかいろんな所で講演会をやりました。

 

311をきっかけに田舎暮らしを始めた人たちの村づくりを手伝ったり、俺が体験してきたことを教えたりしながら全国をまわりました。

 

やっと見つかった村づくりの場所が、九州でした。それで栃木に残してきた嫁さんに言いに行ったんだけど「私は栃木離れたくない。親がいるし。親の面倒みるから」って言われちゃった。

 

でも俺はもう栃木に行ったら目まいするし目が見えなくなるし、腫れちゃって喉痛くてどうしようもない状態なっちゃうんですね。

 

それに、栃木の村はもう買い手がついていて、新しい人が住んでました。福島の避難区域から来たご夫婦でした。

 

俺はもう戻れない。俺は新しい村づくりをもう1回やる。それで離婚です。

 

つづく

 

 

 

◇ 栃木の村づくりのときに書いていたブログ ◇

naturewor.exblog.jp

 

◇ 栃木を出て、土地探しをしているときに書いていたブログ ◇

ameblo.jp

016 1200坪の村を月一万円で借り400年前の古民家に住む 〜俺がお金を捨てたわけ

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店舗デザインの仕事をしながらずっと土地を探してて、栃木県粟野の土地に決めました。それでまずその土地の手入れからはじめるんだけど、1200坪が草ボウボウで、草刈りしても切りがないんですね。それでまずヤギを飼ったんです。これがもうぜんぜん感謝しない。

1200坪の草なんてあっという間に食べ尽くしちゃって、畑の野菜まで食べちゃうし、どんどん遠くまで行ってずっと遠くの隣の家の野菜まで食べちゃうし、塀作っても乗り越えて体当たりして塀壊してまた人んちの畑で食べて。東京で店舗デザインの仕事中にこのヤギのせいで、何回も栃木まで車飛ばして謝りに行きました。ヤギのせいで全然仕事にならなくてすごい手間かかるのに、まったく感謝しない。ヤギのミルクでチーズ作ろうと思って一度乳搾りしようと思ったらすっごい怒ってそれ以来警戒して全然近寄れない。なのに冬になると草がなくなるからペットショップでウサギの敷き藁の一束2000円するのを毎日6束買ってきて食べさせなくちゃなんないから冬場のえさ代が毎日12000円。すごいセレブな彼女よりも金がかかってました。

 

ヤギだけはもう絶対飼わないって決めてます。

 

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で、土地の話に戻ると、月1万円。山奥すぎてコンビニもないし電波届かなくて水道も何もない草ボウボウの土地。

そこに400年前の古民家。ボロボロの、壁がない。トイレも風呂もない。江戸時代の家。

 

それがすごい気にいっちゃって。ここに住みてえと思っちゃったんですね。

 

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それで、料理は100パーセントたき火。毎日ダッチオーブン料理。おかげでダッチオーブン料理の達人になっちゃった。

 

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裏の山から川の水引っ張ってきて。壁を作って。ドアを作って。鶏小屋を作って。作業小屋を作って、どんどん作っていった。母屋の周りに小さな家を作って。ログハウスも作って。一人二人と人が集まってきて。村ができてくるようになって、人が泊まれるようになったのね。そんで東京から自然農法をやっている人たちが耕してくるようになった。土日。泊りがけで。

 

その頃、自然素材の店舗デザインをしながら、自然素材でアレルギーの家直しも同時にやっていて、あるとき千葉県の栗源村から、竹小舞で小屋を作ってくれという依頼が来たんです。竹小舞は、竹を編んで壁の下地を作って、土を塗って、最後は漆喰で仕上げる日本の伝統工法。その小屋づくりのワーックショップのときに泊まっていた所がくりもと地球村っていう自然農法の学校でした。そこの生徒たちとも仲良くなって。ほとんどが東京の人だったりして、みなさん学校を卒業したあと自分の土地がないんですね。で、うち耕していいよ、好きに。その代わりに野菜分けてよ、って。みんながうちに来るようになって俺もみんなから自然農法を教えてもらいました。

 

地元の人とは、ヤギのことで謝っているうちに仲良くしてもらえるようになってました。野菜をくれたりして。ある時は玄関が血まみれになっていてびっくりしたら、近所のじいちゃんがしとめた鹿の足を玄関においてってくれてたり。満月の夜は見月祭っていって誰でもうちに来てっていって。子供も若者もじいちゃんもばあちゃんも。近所の人たちが家族みんなでうちでご飯を食べて酒をのんで、いろんなことを教えてくれました。

 

そんな風にひとりぼっちで始めた村づくりに、人が集まってくるようになってきた。

 

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いろんな雑誌も取材に来るようになって。ケーブルテレビにも出るようになって。ワークショップをやるようになった。

 

そうやって自給自足の村づくりがスタートして、衣食住の食と住が整ってきたころに衣食住の衣との出会いが始まったんです。

 

俺にとって、服を作ることは家をつくることよりもずっと大変なことだったんです。植物を育てて繊維をとって糸を紡いで。それを織って布にして。裁断して。縫い上げて。染めて。

 

村づくりをしていたその栃木県の粟野町って所は、日本全国の90パーセントの麻の栽培地だったんです。

ところが麻は、免許がないと育てられない植物でした。

 

あるとき仲良くしてた77歳の爺ちゃんが、麻栽培をやめるって言い出して。やめなくていい、俺がやるからって。みんなでやるから続けようって言って。そこを借りることになったんです。そこで、ワークショップでストローベイルハウスを建てて、麻で土壁作って、家を造ったりするようになりました。そこで麻ひき体験とかオアカっていうんだけど、捨てる部分で断熱材作ったりそういうことやって栃木農業高校の課外授業をしました。宇都宮大学にも呼ばれて講師をさせてもらったり。そのうち麻関係の人たちがしょっちゅう来るようになってヘンプカーの出発場所になったりしました。

 

みんな、俺がいなくても勝手に家に入って、布団敷いて泊まってったり。勝手に餅つきしてたり。みんなが子ども連れてきて自分の家みたいにしてくれて。

理想の村がだんだんできてきた。1人ダッシュ村。

 

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つづく

015 オリジナルのしっくいでテーマパークや、きみまろビルを手がける 〜俺がお金を捨てたわけ

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日本の家づくりがおかしいってずっと思ってきて、型通りの家じゃないワクワクする家作りをはじめたけど、自然素材に対する偏見も強くて、広まるのに時間がかかると思いました。


だからもっと人目につく仕事で、もっとワクワクする形で、自然素材の家づくりを提案していこうって、店舗デザインに仕事を絞ったんです。

 

その一方で、本当の仲間をつくりたかった。だから、自給自足の村づくりの場所探しも重要だった。

 

その頃の俺の考え方は、仕事をして、その収入で、村づくりをしようって。

 

村づくりの為に何か仕事をしなくちゃって思って店舗デザインをしてたんです。

そしたらそれがまたすごいことになっちゃった。

自然素材だけで店舗デザインする人が日本に1人もいなかったんです。

 

なぜか。

みんなカタログから選んでたんですね、素材を。

 

俺はカタログから選ばないで作り出すんです。だからどんな景色でも作れました。お客さんから、あるときは映画の一時停止でこんな風にとか、新婚旅行で行った国の景色とか、アニメの一時停止でこんな風に、絵本持ってきてこんな風とか、何でも作れたんです。

 

どんな景色も作れないはずがないって思ってるんですね。どれもいつか誰かが作ってきた景色だから。ホームセンターも電気もない時代に。だから絶対作れるって思ってました。

そうしたら、世界的に有名なテーマパークの景色作りを頼まれたんです。

 

そこからいろんなテーマパークの中のレストランだとか、モンスーンカフェとか星付きの有名なレストランとか、頼まれるようになったんです。一気に広がりました。

それで、自然素材だけで東京ビックサイトの建築・建材展に出たんです。

 

土壁で出店しました。

 

一日でサンタフェの景色を作って、出店して3日目に全部解体。壁は全部土だけで作りました。

そこに綾小路きみまろさんのビルを設計してる人が興味を示してくれたんです。それで綾小路きみまろさんに紹介されて、それで銀座7丁目の綾小路きみまろさんのビル1階から6階まで全部土としっくいで工事頼まれました。そのときは、土だけじゃなくて手すりも全部頼まれたから、鍛鉄の鉄を叩いて作りました。全部手づくり。カタログから選んだ素材1個もなし。全部作った。

きみまろさんは、そこらの建築士よりずっと建築に詳しいから話が合ったし、世界中の美しい建築とその素材を良く知っている人だから思いっきり仕事をさせてもらえました。

 

工事中はずっと面白くて笑いすぎて。きみまろさんも俺の話が面白すぎて。付き人になれって言われた。面白すぎてずっと一緒に笑っちゃう。俺もきみまろさんなら付き人も悪くないって思ったくらい毎日おもしろかった。俺の話も苦労話も笑ってくれて。村でヤギを飼った話とかして。あとでその村づくりの話も出てくるんだけど。俺は村づくりの土地をみつけて、最初に飼った動物がヤギだったの。ヤギだけは言うこと聞かないし全然感謝しねえって話をしたら、きみまろさんちでもヤギ飼っててそうだったんだって。

 

つづく

014 スウェーデンとドイツには絵葉書になる1500年前から建つ家があった 〜俺がお金を捨てたわけ

ちょっとさかのぼるんですけど、21世紀日本の構想の代表として、スウェーデンとドイツで建築の勉強をしたときに、しっくいの文化に触れたんです。何がすごいって、スウェーデンとかドイツの街並み写真採ったら、どこ撮っても絵はがきになること。どこを撮ってもすてきな景色。

 

 

 

日本の住宅街、写真撮って絵はがきにしたら何これ。ってなりますよね。海外行って帰ってくると日本の街並みはグレーで全然面白くなかった。

 

ドイツでは、ホームステイしている家で「この家ものすごくおしゃれですてきだけど。一体いつ建てたの」って聞いたんですね。「15世紀から建ってるよ」って。はあ壊れないんですねって。日本の常識おかしいなと思いました。

 

それで日本に帰ってこの景色とこの素材を広めようと思ってしっくいの研究を始めました。

 

そのときに造った家が『えほんの家のつくり方』あの本の家。子供の頃にワクワクしながら読んだ絵本に出てくるような家を広めようと思ったんです。ただの家の医者からの脱出したのはそのとき。27歳のとき。27歳でスウェーデンから帰ってきて初めて作った家があの家でした。

 

日本でこの家を広める。このおしゃれな感じ、そして長持ち。しかも、アレルギーも治っちゃって、風邪のウイルスも死ぬ、カビも生えなくて掃除もいらない家のつくり方。こんな最高なことないなって。で、それを広めようと思って研究しました。日本のしっくいを研究して3カ月ぐらいですっごくいいしっくいを作ったんですね。

 

そのしっくいで作った家なんですね。絵本の家は。

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それで、住宅ではなかなか広まらないから店舗づくりにしようと思って。店舗デザイナーとして1人でやり始めたんです。それが30歳でした。

 

つづく

ginnosukesanno.wixsite.com