山納銀之輔

自然界に寄り添って生きろ!全てを失くしても大丈夫!世界は大きい!

004 ホンダのテストドライバー、花王のおむつ工場。バイト流転の日々 〜俺がお金を捨てたわけ

  

高田馬場のじいちゃんに出会って大学を退学した俺は、昼と夜、いろんな仕事をかけもちでやりました。もちろん飲食店もやったし、大手工場から豆腐屋までいろんな物作りの工場でも働きました。その中でも一風変わったバイトはテストドライバーでした。

 

テストドライバーには希望してなったわけじゃなくて。申し込みの時はエンジニア志望でした。入社試験になぜか動体視力の試験があって、俺はそれが日本一でした。視力も当時4.0でした。

ずっと剣道部だったこともあって、動いているものが全部はっきり見えるんです。それで、出勤初日にいきなりグローブを渡されました。で、明日から鈴鹿行ってくださいって。

鈴鹿でB級ライセンスを取ってきてくださいって。

鈴鹿ではまた、別のたくさんのテストを受けました。

その結果、Aダッシュって日本に2人しかいない、最高の成績でした。俺、初心者マークだったのに。

そのとき、これはもしかしたら俺の天職なんじゃないかと思いました。運動神経を測るテストとか。いろんなテストが全部すごくいい成績でした。俺は嬉しくてこれは絶対天職だろうと。ついに見つけたってすごい嬉しかった。

 

ところが。給料があまりにも安すぎて。例えば、車3台に対して27人のテストドライバーがいるんですね。事故があっては危ないから交代で乗る。一台を1時間ごとに9人で交代で乗る。だから単純計算で一時間乗ったら8時間休み。もうものすごい暇で。給料安くても誰も文句言わないぐらいものすごい暇で仕事がないやることがない。仕事の奪い合いで殺伐とするくらい暇でした。

 

マイナスドライバーが減って、サンダーで角とがらせるのとか、そんな仕事見つけたら俺の仕事取るんじゃねえよみたいな。仕事が暇すぎて働きたくてしょうがない。

それで、俺はそんな所にずっといたとしたら、そのまま人間腐るんじゃねえか。って思っちゃったんです。

 

あるとき係長に「この仕事って車もっと増えないんですか」とか。いろんなこと質問し始めたんですね。で、係長は「増えないよ。まあ給料は安いけどそれはそれなりの仕事しかしてねえからしょうがねえんじゃねえの」って。もうすっかり諦めてるその係長は41歳だった。41歳の係長の給料が18万だっていうのも聞き出して。あ、これ将来性ないと思って。3ヶ月で辞めました。

 

俺は大学を辞める時に一つ決めてたことがあって。大学を辞めるからには大学を卒業するやつよりは収入を得たいと思ってたんですね。

20代のときの俺は金が基準だったから。

 

それに、俺は絶対に成功してやるんだっていつも思ってたんです。一旗あげてやるって。だから、大学をやめるときにみんなが反対したけど、俺はただもんじゃないんだから絶対成功するんだからって。

 

その次は、給料が良くてずっと働ける会社を探しました。栃木の市貝にある花王の工場。花王のメリーズっていうおむつを作る工場。それ初任給26万でした。

俺はその工場の隣町の高校に通ってたから、その工場には知り合いが結構いて、俺の同級生が研究所に働いてたり、保育園のとき好きだった子がいたりして嬉しくて。よしここにしようって。51人中3人しかない採用枠に通ったんです。

 

そしてそこで働いてたんだけど、今度は、昼勤、夜勤、交代制。2日昼勤2日夜勤2日休みで6日周期。なので、土日に休みがくることがなかなかなくて、日曜日に友達と会えない。彼女にも会えない。しかも夜勤のあった次の日の休みってもう寝てるしかできないくらい疲れすぎてるんです。一日寝て、その次の日は何するかっていうと、その次の日の仕事のために体力を温存してまた休む。

なんだこれは、100パー仕事のための人生だと思った。

 

 そこは夜勤がある大きな工場だからお風呂場があったんですね。でっかい大浴場。で、朝、夜勤が終わった後、風呂入ってるといろんな人が入ってくる。当然みんな裸。だから風呂の中では上司とか関係なく話せる雰囲気があって。で、「係長ちょっと聞きたいんですけど。係長は50人中の社員の中の係長で今、頑張って係長になられたと思うんですけど。係長ってどうやってなるんですか」って聞いたの俺。「どうやってなるんですかね」「ん、それは難しいな」「50分の1ってすごいじゃないですか」「とにかく一生懸命やるってことが大前提だけど。運だろうな」って。まあ確かに運だよね。「係長はこの仕事してて面白いですか」って。「いや面白くはないよ。でも仕事だからな。仕事は大変なもんだろ」って。あ、そうなんだと思って。今度は別の日に係長じゃなくて課長に質問した。同じ風呂場で。課長は3人の係長の上司。「課長。課長になるのってどうやるんですか」って。「これ難しいんだよ。みんないいと思ってるけど下からも文句言われるけど上からも文句言われて大変なんだよこれも。すごく大変でね。みんながいいと思ってやっと課長になれたと思ったらみんなどこか体を壊してるんだよ」って「でも仕事楽しそうですね」って言ったら「いや、楽しくないよ。嫌だけどやるのが仕事だろ」って言われて。もう辞めようと思った。

 

なんで俺がそんなに楽しいかどうかにこだわるかっていうと、男の起きてる時間って半分が仕事ですよね。24時間のうちの7時間くらい寝て、8時間以上仕事してますよね。

 

もし仕事がつまんなかったら、起きてる時間、人生の半分がつまんないって事だと思ってて。半分の人生がつまんないのは俺は嫌だと思ってて。面白い仕事をしてたら、人生の半分が自動的に面白くなって、俺の人生最高だなと思ったんですね。

 

すごい嫌な人と毎日顔を合わせるのをみんなが我慢してたり、春夏秋冬の空気も感じられない工場の中。あらゆるストレス抱えて、そのまま年取っていって、本当は香川の景色の美しいところに住んでたんだけど3年間転勤ねって言われて来てもう35年だよなんていう人もいる。会社の歯車の一つとして、自分の幸せや故郷の美しい自然から切り離されて生きていくんだよねみんな。なんのための人生なんだって。この会社に入ったときは俺の親も喜んだ。給料がいい一流メーカーに入ったって。だけど、こんなのはむしろ親に申しわけねえなと思った。手塩にかけて育ててもらったのにつまんねえ人生歩んで、退職する頃には病気になって、酒と薬を交互に飲んでる。俺はこれはもう絶対嫌だと思いました。

 

給料安くて暇な会社と、給料良くてすごく忙しいけど、病気になる会社両方入った。どっちにも俺の生きたい人生はなかった。

もうこれは開業するしかないと思った。

 

大学のときに転々としたバイトの中で面白かったベストテン。ベスト3が面白かった仕事。1位が電気屋さんでした。電気工事屋さん。なぜかっていうと電球交換に行ったりコンセント増やしたりテレビ写るようにアンテナ立ててあげたらお客さんが俺の目の前で大喜びするんですね。

 

2位が水道屋さんでした。水道工事やって水が出たとか、お湯が出るようになったとか喜ばれる。普通の他のバイトは、全部こっち側が「ありがとうございました」って言ってかなきゃいけない。逆にお客さんが「ありがとうございました」って言って、丹誠込めて作った野菜をわざわざ畑からとってきてくれるんですね。

 

俺こんなに毎日いろんな人に出会えて春夏秋冬感じられて毎日違う人に出会えて金までもらってお礼までしてくれる。こんないい仕事ないなって思った。1位2位をドッキングさせて何でも家の困りごと直しますっていう会社作ろうと思ったんです。

それが俺が最初に軽トラ一台とプレハブ小屋で始めた“家のお医者さん”でした。

 

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◇写真:ミャンマーにて。シャン族とストローベイルハウスを作る

 

ちなみに、3位がラーメン屋。これは1位2位とは全然違う理由。店長がいつも休憩時間にカップラーメン食べてて。容器の後ろを見て「なんだろうなこの肉エキスって」って。いつも悩んでた。「なんでこんなうめえんだろう」って。そのラーメン屋は、自分で製麺までやってるこだわりのラーメン屋だったのに。超こだわっていて、朝早く店に来て鳥の尻の部分の油だけを使ってスープ作ってみたりとか。営業中にもいろんなことを試して研究してた。そんな店長が休憩時間にカップラーメン食って、原材料名見て「なんだろうなこの肉エキスって。魚介エキスの魚介が分かんねえな」とかやってる。味を研究しつづける姿勢も、どんどん美味しくなっていく過程も奥深くておもしろかった。それが3位です。

その3位は、後々俺が料理研究家になる所につながっていきます。

 

つづく

003 茨城大学を3日で休学 放浪モグリ受講 〜俺がお金を捨てたわけ

 

そのじいちゃんは、どっかで話し掛けてきて長い間話して「じゃぁ、私はここで」って、高田馬場で降りていきました。それで何だかその時素直に、その通り生きようと思ったんですね俺。そのとき大学2年で茨城大学に籍だけはおいていて。実は大学入って3日目で行かなくなって、自分のやりたいことを探していたんです。

 

俺は第2次ベビーブーム層の真っただ中で、競争社会の中でもまれて国立の大学入りました。入学3日目にこの大学は一体どんな所に就職するんだろうって一覧を見たんですね。事務局で。全然面白くなかった。なんだか。工学部だったから女の子も2人しかいないし。これはだめだ面白くねえわと思って。

 

学食もなんか刑務所みたいでしたしね。もうつまんなすぎてなんかこう、嫌な雰囲気ってあるじゃないですか。俺は霊感とかないんだけど嫌な雰囲気にはすごい敏感なんですよ。嫌な雰囲気でこんな所で生きてくのか大学って嫌だなと思って。事務局の就職先一覧にやりたい仕事が1個もなかった。よし分かった。と思いました。

 

 俺はそのときまで大学っていうのは中学を卒業してとか、高校卒業してすぐとか、やりたいこと始められる人って本当にごくわずかですよね。大学の4年間に自分のやりたい仕事を見つける時間だと思ってました。でも行った瞬間になんか嫌な感じでなんか違うって分かった。やりたいことを見つけるんじゃなくて、むしろその逆で、枝分かれが狭められて、一方向にしか就職できないようにするのが大学だってわかったんです。

 

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だから3日目に行かないって決めて、何したかっていうと他の大学モグリで行ってました。他の大学モグリで入って授業を受けて。出席は呼ばれないから。呼ばれないから返事しないから大丈夫で。転々と各地の大学の授業を受けながら、いろいろなアルバイトをしました。

 

例えば埼玉に行ってどこかの大学行ってバイトしながら暮らして、東京行ってどこかの大学行ってバイトしながら暮らして、福島行ってっていうのをずっとやってました。

興味ある授業を探して授業を受けまくったんです。

 

で、自分がやりたいことは、工学部じゃないってことは分かって、心理学がすごく楽しかった。

茨城大学を選んだのは、偏差値がちょうどいいからだったし、社会とか国語とかはもともと大の苦手。消去法で入ったのが工学部でした。

 

いい大学入っていい会社に入っていいサラリーマンになったら幸せよって習ってきたけど、やりたくもない仕事して何が幸せだって思ったんですね。

 

それで、全国回ってその結果。一応籍は残してた大学だったけど。それを19歳のときそのじいちゃんに出会ってやめる決意をしました。よし。やめようと。

 

つづく

002 人生を変えた「高田馬場のじいちゃん」との出逢い 〜俺がお金を捨てたわけ

23歳の時に、軽トラック一台とプレハブ小屋からスタートした、俺の最初の起業が“家の医者”でした。

 

なぜその仕事を選んだかというと、19歳のときに電車で出会った、名前も知らないおじいさんとの出会いがあったからです。僕はそのおじいさんのことを“高田馬場のじいちゃん”と呼んで、辛いときや悩んだときに思い出しています。

 

山手線の満員電車の中、いきなり人ごみをかき分けてきて、俺の前に立って、「手見せろ」って言うおじいさん。てっきり何かの営業かと思いました。

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 でも一方で、なんだこの状況は、面白いぞ、とも思ったんです。それで手を見せたら「やっぱりそうか。あんたを探してた」と言う。占いみたいでものすごく怪しい。これだから東京はやだよ。って思いました。でもそのじいちゃんが「怪しまなくていいよ」って優しい目で見るんです。

 

「あんたは今19歳で大学2年で海の近くに住んでるね」当たりです。で、「お母さんが17歳のときに病気になったでしょ」って。何でも分かるんです。この人は何者だと思いました。そのおじいさんはかなりのお年寄りだったので、隣の人が席譲ったんですね。俺は座ってて。吊り革につかまっていたそのじいちゃんが隣に座っちゃったので、もう逃げらんねえ。もういいや、聞こうと。こういうこともあるんだなと話を聞きました。

 

「あんたの手相ってのは百万人に1人の手相でめったにないけど。選ばれてこの世に生まれてきている。たまにしかこういう人はいないからよく聞くんだ。絶対にやりたいと思ったことやりなさい。その代わり誰もが反対する。みんなが邪魔したり反対したりする。でもあんたがやりたいと、これだって思ったことは絶対やりなさい」

「あんたはそういうふうに生きていくことによって周りの人が幸せになる。そういう人がいるんだよ。百万人に1人。あんたはそれだから」もう漫画みたいだなと思って聞いてました。

 

だけどそのあと言ったことが大げさでしたね。「あんたは26歳のときに日本の代表に選ばれるから」って。大げさすぎてつり革捕まってる人が、またバカなこと言ってるわみたいな顔して見てるんです。「26歳のとき日本の代表になって30歳のときにまた新たなことを切り開くだろうそして42歳のときまたなにかに選ばれて大丈夫になる」そして、「55歳のときに大成功する。65になったら安泰だ。あんたはその代わり、人の何十倍も苦労するよ。金もないけども。あんたはその道をやりたいことをやっていけ」って言うんです。今45歳なんですけど、そのじいちゃんが言った通りのことが起こりました。

 

つづく

 

001 肩書は天然素材コンシェルジュ&空間デザイナー 〜俺がお金を捨てたわけ

俺の肩書きは、“天然素材コンシェルジュ”。そして“空間デザイナー”です。

 

天然素材コンシェルジュとは、ドイツではよく知られている職業です。

 

自然素材を使って家を作る時に、どこにどのような自然素材を使うかを提案するのが主な仕事です。

例えば、アレルギーがひどいお子さんがいるとか、シックハウス症候群の奥さんのために家を直すとか。

 

日本ではあまり知られていないことですが、家を作るときに使う素材を変えることによって、ひどいアレルギーが治ってしまうことがあります。

 

天然素材コンシェルジュは、どんな建材が原因でどんな症状が出るかを知り尽くしていて、家の中のどこをどんな素材で直したら症状が楽になり、快適に暮らせるかを提案する自然素材の住宅専門家です。それをずっとやってきました。


症状が進んだアレルギーやシックハウス症候群の場合、自分の家に入ると高熱が出てしまったり、くしゃみが止まらなくなったり、立っていられなくなる方もいらっしゃいます。

 

自分のところに問い合わせして来られる方々は、食事制限やマクロビオティックなど、様々な療法を試しても治らずに建築素材の問題に注目された方々です。その方々が一発で治る場面を体験しました。

それが俺の仕事の一つ、天然素材コンシェルジュ

 

もう一つは空間デザイナー

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これがもともとメインでやってた仕事でした。某世界的有名なレジャー施設や、ミシュランに載るような飲食店や撮影スタジオ↑なども手がけました。

 

設計士やデザイナーとの大きな差は、例えば、あるレストランがオープンして店舗を改装するときに、メニュー表の紙質や色から箸袋のデザイン、ウェイトレスの服装まで考えるところです。それに加えて、春夏秋冬のダイレクトメールの内容まで全部提案します。

 

なぜそんなことまでしたかっていうと、すごくおいしいレストランのシェフは、言うまでもなく料理の天才です。ところが、天才的な腕の料理人に限って、どうやったらお客さんが入るかが分からないのです。

おいしさを徹底的に追求し続けてきた天才的料理人達が作り出す料理を、ふさわしいお客さんに食べてもらいたい。そして、お互いに感動と喜びを分かち合ってほしい、経営的にも成り立っていって欲しいと思ったんです。

 

それを提案するのは、自分にしかできないって、心から思ってしまったんです。どんなにおいしい料理を一生懸命作っても全然売れないレストランもある。本当に腕の良い料理人が作る美味しい料理が消えていく。そういうのが嫌だったし、なんとかしたかったんです。

 

もっとさかのぼると、俺の仕事の始まりは家の医者でした。家の医者とは、例えば停電した所を直しに行くとか。コンセントが足りないからつけに行くとか。おばあちゃんが1人で住んでいて電球交換ができないとか。水道が水漏れしてるから直してくれとか、そういう家の困ったことを直しに行くっていう家の医者の仕事をしていました。


つづく