011 6回の自殺未遂。だけど…死ねない! 〜俺がお金を捨てたわけ
それまでの仲良くしていたみんなに背を向けられて、そのとき完全に死のうと思って。首つりしたんです。
最初はヒモで。ヒモを太くしたりして。でも毎回切れちゃう。これは切れないだろうっていうヒモが切れちゃうんです。
最後はタオルでやったの。そうしたらうまくいって、俺はやっと意識を失いました。6回目だった。
でも気が付いたら、あれまだ俺生きてるっていう状態。タオルがちぎれていました。6回やって死ねなかった。
もう分かった。人は寿命が決まっててそんときまでは絶対死ねないようになってるんだと思った。
6回チャレンジしたけど死ねなかった。もう生きてることがつらいけど、もう誰にも相手にされないけど、1人ぼっちだけど、頑張って生きていくしかねえんだって。
ものすごく辛かった。
俺には友達が一人もいないってわかった。俺はみんなのことが大好きだったけど、誰もそのときの俺のことを好きでいてくれなかった。
つづく
010 借金残り1300万の壁 〜俺がお金を捨てたわけ
6400万あった借金を残り1300万というところまで返済して、そこから一向に返せなくなったんです。
景気が本格的に冷えていた時代的な理由もあったと思うし、俺の経営が間違っていたのかもしれない。でも、どう頑張ってもだめだった。もう無理かもしれないと思いながらもなんとかなるなんとかしたいって頑張りました。毎日が支払いの心配に追われていて、電卓たたきながら従業員の家族の顔が浮かんでくる。毎日が苦しくて、週に1回の非常勤講師だけが楽しみでした。
実は強制送還になったサムエルから、送還の半年後に電話かかってきたんですよ携帯に。「あ、サムだ。なんでサムエル日本にいるのか」本当は10年入国できないはずなんですよ。「どうやって入国したんだ」「大丈夫だ」日本語で。「宇都宮駅にこられるか」「行くよ」って言って、行ったらサムエルがいて。で「どうしたの」「また帰ってきて今度は東京の青砥でいう所で働くんだ」って言って。親戚でおばさんにあたる人がいるんだっていう。そこに行って日本の中古車をナイジェリアに輸出する仕事するんだって。「部品が高く売れるんだよ」って。「おまえどうやって入ってきたの」って言ったらまた違うパスポート持ってきた。新しいパスポート。
サムエルの底抜けのどんな不幸にも負けない笑顔見てたら、俺は何やってんだ毎日って。俺もサムエル見習って精一杯生きなくちゃだめだという思いが出てきた。でもそこからしばらくは抜け出せなかった。
俺が心を決めたのは3年間の非常勤講師が終わったときでした。会社を解散することに決めました。そのとき30歳でした。
もしこのまま70歳になっても俺は多分お墓に入るときにすっげえ後悔すると思った。一生に1回しかない人生これかって。
車も家も、実家も事務所も会社も、借金のかたになくなった。ゼロから出直しだって思いました。
会社解散するときに、従業員のことがどうしても引っかかってたから。全員いい会社に紹介して、ホンダとかみんないい会社にちゃんと入れるように手配して。それから解散しました。
自分の人生生きようと思ってのことだったんだけど、ここから俺の人生の本当のドン底になっちゃった。
会社を解散したとたん、今まで親切にしてくれてた人たちがいきなり冷たくなった、周りにいたほとんどの人がその時いなくなった。
ひとりぼっちになった。そのとき。
仲良く思ってた人たちが全員冷たくなって、それがあまりにも悲しくて俺の心はそのときズタズタになっちゃった。6400万持ち逃げされた時とは比べ物にならない程孤独だった。この時が俺の最初の人生のどん底。
金がないとかでかい借金があるとかよりも、一番つらかったのがひとりぼっちになったこと。
それまでは借金があってもまだちやほやされてて周りには人がいっぱいいた。でも、解散した瞬間から誰一人俺を応援してくれる人がいなくなった。俺に話しかけてくれる人もいないし、優しくしてくれる人もいない。周りに誰もいないんだ。
つづく
009 小中学校の校長をはじめ先生たちを変えてしまったパソコン非常勤教師 〜俺がお金を捨てたわけ
「日本人に生まれただけでラッキーだ」
「あらゆる職業につけてあらゆる教育が受けられる。のたれ死ぬことはまずない」
「なのになんで日本人はなんでやりたいことをやらないんだ。もったいないよ。」
俺はサムエルの言葉をどうしても今の子供達に伝えたくて学校の先生になりたいと思ってたんです。そしたらちょうどそのタイミングで小中学校の非常勤講師の募集が出てたんです。パソコンの授業は一般から先生を募集してたんです。これだ、やろうと。
最初の日は必ずサムエルの話。俺たちは日本人に生まれただけでラッキーなんだから。やりたいことはなんだってできる。なんでやりたいことが見つかんないのか。それは大人たちがそんなことやってもしょうがないとかいうからだ。そんなこと関係ないから、自分のやりたいことを決めてそれに向かえって。初日に必ず言うことにしたんです。
学校の先生ってどちらかというとレールに乗った人たちですよね。レールに乗った人たちが先生だからハメを外したりしないし、俺みたいな非常勤講師なんかに興味がないんですね。何きれいごと言ってんだみたいな感じです。最初はどこの学校に行っても職員室では相手にされませんでした。
講師に応募するとき、俺は決めたんですね。「学校に来ない子も絶対に授業に出す。保健室にいる子も、音楽室にいる子も、鉄棒にいる子も、授業に出す。全員出す。」って決めたんです。校長先生に「いいですか」って言って「いいですよもちろん」なんで誰もそれをやんねえんかなって思ってたんです。
俺の授業はいつも木曜の5時間目だったから、朝からずっと不登校の子の家をまわって迎えに行きました。
お母さんも一緒に授業に出ていいですって言って連れて来たんです。なんでそういうことしないかな学校はって思った。だけど俺の授業はやるから。って決めて、お母さんごと連れてきて授業に出したの。
他の授業はどうでもいいけど俺の授業は来いよって。
木曜日の5時間目だけは出てもらいました。
それで学校でちゃんとパソコンを教える、もちろん。そして5分くらいは俺が伝えたいことを話して、子供達の話も聞いて。5分ぐらいはいつも時間取ってました。
毎回必ず連れてくるわけ、必ず迎えに行って。そのうち迎えに行かなくても5時間目だけ来るんだよその子たち。それを11個の学校でやりました。
小学校と中学校を半年ごとに移動して3年半やりました。
それですごい反応があって、子どもたちはどんどんやりたいことが出てくる。自分から学校に来るようになるし、保健室にいる子も絶対に俺の授業は出るようになる。子供達に積極性が出てくる。引っ込んでいた子に限ってものすごいスピードで覚えたりするんですよね。そうすると、今度は先生が変わってくるんですね。子供達を見ている先生が変わってくる。
そのうち、校長先生が教室の一番後ろで、ちっちゃい机に座って俺の授業聞くようになる。
それで給食のときに先生達が机寄せてきて、俺の話聞くために集まってくるようになるんです。最初はなんだこいつから始まって。その学校に半年行き続けて3カ月ぐらいから職員室と校長が変わる。俺は大人も変われるんだって思いました。元は教育に対する情熱があって教師になった人も多いんですよ。だから変わる。
半年たって子どもたちがみんな手紙書いてくれるんです。僕はパン屋になりたいですとか、本屋になりたいです、看護婦さんなりたいです、と。小学校とか中学校で。それをみんな手紙で書いてくれるんです。たった半年しかいなかった俺に。
それで校長先生がぜひ、うちの息子バイトで使ってくれませんかって言ってくる。それがね、かなりの確率で言われるんですよ。びっくりしたのは大人たちが変われるっていうことでした。ちゃんとした教育学部に入って教育実習を受けて先生になるっていうことはレールの上を走らされていることになるのかもしれない。でも子どもたちの心をつかむっていうことはそれとは別のことなんですよね。それがちゃんと分かった。俺も先生達も。先生達の変化と言えば、各校に必ず2人ぐらい熱血教師がいるんですね。2人ぐらい。大体。
半年たってこの熱血教師が教師辞めますって言ってくる。自分のやりたいことやるっていうんです。
ずっとレールに乗っかってきたから今更辞められない。世間体もあるし。親もおまえはいい子に育って先生になって大したもんだみたいな。だからやりたいことはあるけど、もうこのまま先生として生きていこうっていう先生。その先生がまず教師辞めますって。
俺は子供を変えなくちゃって思って学校にきたけど、大人だってこんなに変われるんだって思ったんです。子どもよりもすげえなあと思った。たった半年で、レールからはみ出したことのない先生が、完全にはみ出しちゃってる俺の影響で変わったんです。たった半年です。
俺は「先生が辞めたらこの子たちはどうなるんですか。この学校には先生が必要だから、気持ちは分かるけど子供達の為にも残ってください」って。
それで、学校を移ってしばらくすると風のうわさが流れてくるんです。その先生がトライアスロン完走したぞって。
何人かの先生達がやりてぇこと何でもやるようになっちゃった。
高田馬場のじいちゃんが言ってたこと、俺がやりたいことやったら回りの人がみんな幸せになるって。それはこのことかなって感じました。
本当に学校の先生はやってよかったと思ってるんです。みんなが幸せになった。だから、これからの学校もたまに一般の人から先生を入れるっていうことをやったほうがいいですよね。
俺が思ったように、やりたいようにやったら、大人だって変わった。みんなが幸せになった。そのことで、俺は一つの決断をしたんです。
つづく
008 100均の英和辞典で交流。サッカー元ナイジェリア代表サムエル 〜俺がお金を捨てたわけ
人生がつまんなくって死にたいって思いながらも、現場でお客さんに感謝されてたときのこと思い出して、大丈夫だなんとかなるって思って必死で電卓たたいてるとき、外国人労働者を雇用する話がきたんです。
日本人でさえ仕事ありませんっていう時代にサムエルっていうナイジェリア人は日本語が話せない。なのに日本で仕事を探してるっていう。面白そうだって思って採用しました。
サムエルは元W杯のサッカー選手だった。
でもケガをしてドクターストップがかかっちゃった。それで日本に仕事を探しに来てたんです。
サムエルに100円ショップの『ザ・英和辞典』を渡して、俺が『ザ・和英辞典』持って。二人で軽トラに乗って、俺も現場に出るようになったんです。
彼も日本でお金を稼ぐために一生懸命でしたし、俺も仕事させたくてしょうがないからお互いに必死です。だからすごい覚えましたお互い。
半年程たった頃、英語にない言葉をサムエルが言い出したんです。「もったいない」って言い出した。「日本人はもったいない」って。
「なんでだ」っていったら「日本は生まれただけでラッキー。日本人に生まれただけでラッキーだ」「なんで」って。「あらゆる職業につけてあらゆる教育が受けられる。のたれ死ぬことはまずない」
ナイジェリアだったら仕事がない人が駅とかで寝てていつの間にか死んでるんですよね。日本には仕事がいっぱいあって、必要な教育はなんだって受けられるのに、日本人はなんでやりたいことをやらないんだ。もったいないよ。って。
「じゃあサムエルは勉強しろって親に言われなかったのかよ」って言ったら1回も言われたことないんだって。何で。職業が四つしかなかった。お父さんに言われたのは4歳のとき。「おまえ何になる。将来。次から選べ」
「タクシーの運転手、きこり、車屋、サッカー選手。どれ」
職業が4択。
お父さんにその4つから選ばなかったら死ぬぞって言われて、サムエルは「サッカー選手」って答えた。「じゃおまえ頑張れな」ってサムエルの人生は4歳からサッカー選手の道に向かったんです。
サムエルは4歳のときになりたい職業を決めて、5歳のときに駅前で靴磨きを始めるんです。サッカーボールを買うために。
買ったサッカーボールを裸足で蹴って練習して。それでまたずっと靴磨きをやり続けてシューズを買うんですね。
でもすぐに足が大きくなって履けなくなるからそれをブラザーに渡す。ずっと靴磨きを続けて靴を買い続けて。15歳のときにジュニアアフリカンカップの選手に選ばれたんです。カメルーンとかガーナとかアフリカ中から強いヤツらが集まってくる。サムエルはその代表になったんです。15歳ですごいことです。彼は本当に頑張ったんですよね。そして18歳だったか17歳かでW杯の選手に選ばれたんです。「俺年齢若いからなれない」って言ったら「大丈夫だ心配ない。なる気あるか」「なる」つていったら、知らない名前の20歳のパスポートをもらった。それでW杯に出たんです。
そこから10年間くらい、W杯の選手をやり続けて。
でも、イギリスの選手に蹴られてドクターストップ。サムエルはW杯選手のときに8世帯の親戚を養ってたんですね。8世帯。
8世帯みんながサムエルのお金をアテにしていて、みんなは働く気がない仕事もない。サムエルなんとかしてくれよみたいになったんですね。じゃあ日本に行って俺が稼ぐよって。
「日本は生まれただけでラッキー。日本人に生まれただけでラッキーだ」
「あらゆる職業につけてあらゆる教育が受けられる。のたれ死ぬことはまずない」
ある日突然、サムエルは強制送還になった。理由はわからない。俺は今の日本の子供達にサムエルの言葉を伝えようって思ったんです。
その頃ちょうど小中学校でパソコンの授業がスタートして、一般から講師の募集をしていたんです。それで非常勤講師に応募しました。
つづく
007 おいしい話には裏が有る。6400万持ち逃げ事件 〜俺がお金を捨てたわけ
総理と対談したあとのステージにはでっかい落とし穴が待ちうけていました。高田馬場のじいちゃんが言ってたこと。「ものすごいあんた苦労するよ。他の人の何十倍も苦労する。でもあんたは耐えられるからその苦労がやってくるんだ。そのたびに必ず助けが現れる。それがあんたの宿命でそういうふうにできてるから大丈夫だ」
代表になってちやほやされて。役場に垂れ幕なんかが下がっちゃったりしました。なんだよこれはって思うくらい気持ち悪いくらいちやほやされるわけ。そうするとすぐ調子に乗っちゃって。20代だから。20代でそんないっぱい売り上げ上げて。代表になってテレビ出て。いろんな人が寄ってきて。ものすごいいろんな電話がかかってきて。持ち上げられて。そうやって誰がいい人で誰が悪い人か全然分からなくなりました。
今考えると下心のある人がいっぱい現れてたんです。それとねたみで陥れようとする人がいっぱい来る。そういうのだらけになっちゃったんですその後。その中にブリヂストンタイヤの大きな仕事の話が来た。でっかい工場作りますと。で、本当は家の医者だったはずの俺が店を構えてからどんどん売り上げ上がって少しずつ人を増やして、お客さんに喜ばれるままにリノベーションだ、家のリフォームの仕事だって。お風呂作りますとかそういう仕事までやってたんですね。手を広げていたんです。人に喜ばれるのが嬉しくて。その時期にそれだったら工場も造れんじゃないのみたいな話になってブリヂストンタイヤのでっかい工場つくるっていう仕事が来たんです。
下請けの人いっぱい雇ったらできると思いました。で、それを作ったんです。
電気工事も水道工事も全部できないと受けられない仕事だったからこれできるって思って。
仕事仲間たちも嬉しいよねきっとって。で、それを引き受けて工事やって建てたの。そうしたらね。その中間に入った会社がいなくなっちゃって6400万が消えちゃった。
持ち逃げされた6400万全部俺の借金。だって俺が元請けでしたから。俺が払わなきゃなんないから。下請けに。大損害なんてもんじゃなかったです。
もうこれ死ぬしかないなと思った。全部売ったとしても足りない。で、生命保険はいっぱい入ってたんですね俺。生命保険おりたらみんなに払えるなってスッとそう思ったんです。
死ぬしかねえ。って本当に。死ぬしかねえって思ったんですけどでも。そのときはこらえたんですね。何とかなるだろうと思って。頑張って稼ごうって。俺ならやれるって。それで何とか1300万まで借金減らしました。
だけど3年で6400万の借金が1300万までに減ったときにそこでストップしたんです。すごいつらかったです。俺は楽しくないと人がついてこないって思ってるから楽しいこともやりつづけなきゃなんない。従業員もそのときには12人に膨らんでました。従業員の給料を払うためにやりたくない仕事もするようになっていました。
人を増やさないと売り上げが上がらない。売り上げ上がらないとと返せないって思ってました。俺の仕事は完全に経営業になっちゃってました。ただの。毎日計算だもん。月末の集金と支払いの心配だけ考え続けて、従業員全員に仕事が行き渡ってるか目を配って、ずっと計算し続けて3年間。毎日3カ所の銀行が金取りに来て全然面白くも何ともないよね。だけど、そのときはまだある反面、ちやほやされ続けてましたね。俺が大借金してるとかそんな苦労いちいち話さなかったからそのことを知ってる人は少なかったし。お金はどんどん俺の目の前を動いてたから。だけど人間不信は止まらなかった。そしてある日なぜか返済できなくなった。どう頑張っても売り上げが上がんない。返済ができない。従業員が10人超えたあたりから、売り上げが上がった以上に経費が増えて、利益は下がったまま停滞したんです。
借金が返せなくなってからはよく昔のこと思い出してました。毎日いろんな人に出会えて毎日いろんな人に感謝されて野菜までもらったあのときの事。
そして死にたいって気持ちがまた強くなってました。3年間で十二指腸潰瘍に8回ぐらいなりました。
人生がつまんなくって、死にたいって思いながら、でもなんとかなるって思って必死で電卓たたいてるときにまた俺の人生を大きく変える出会いがあったんです。
つづく
006 小渕総理より緊急招集!21世紀日本の構想メンバー入り 〜俺がお金を捨てたわけ
ちょうどその頃、21世紀日本の構想っていうメンバーを小渕総理が集めるって言い出したんですね。それはつまり政治家が国を作るんじゃなくて国民が作るっていう趣旨でした。
それとは別に、その頃商工会が青年の主張というをやってたんですね。それはNHKの青年の主張の経営者版でした。自分がやっている仕事の話をしたら、きっとみんなおもしろいぞと思って出たんですね。そしたら栃木県で優勝でした。
それで関東でも最優秀賞いただいて。次は全国大会で沖縄でした。
全国大会で一番なまってたのが、なぜか関東代表の俺だったっていう話がちょっとあれなんですけどね。
残念ながら、全国大会では優秀賞だった。2位でした。京都の饅頭屋の息子に負けちゃった。
それが26歳。あのじいちゃんの言ってたことはこれかと思いました。ところが、それが終わりじゃなかった。
商工会から連絡があって、小渕総理がやってる21世紀日本の構想っていうのに是非応募してほしいって。
応募は20代から20人。女性だけの20人。それと60歳以上の高齢者から20人を集めようということでした。そしてその人たちからの提案を盛り込んだ国づくりをやるっていう仕組みを作ろうとしていたんですね。
「じゃあいいですよ。応募します」って言ったら本当に総理官邸から電話が来ました。
まず書類審査があって「2万人です。今の所」って。
総理官邸からの電話が、途中からメールになったりしていろいろやりとりが続いていて。俺が考えてることとかをメールで聞かれる。俺は忙しかったから電話に出れないことも結構多かったんだけど、電話の時は事務員に伝言せず、絶対に俺じゃないと電話で話さない、質問しない、だった。総理官邸にはきっといろんな決まりがあるんだろうな。そして、「ふさわしい人が300人にしぼられました。」と。
「80人になりました」「40人になりました」って電話が入った。
そして、「◯月◯日に総理官邸に来られますか」って。「はい行けます」って。
それで、20代の若者が集まる総理官邸に行きました。そうしたら、みんな何か紙を持ってるんです。その紙を見ながら、その日小渕総理と対談するか、1分間だけしゃべるのだと。20人が。だけど18人しかいなかった。ふさわしい若者が18人しかいませんでした。って。
みんなが紙持って、1分間話す内容を真剣に読んでる中で、俺だけ何も聞いてないから不安になっちゃって。だから「ちょっとすいません」って「俺何も聞いてないから何をしゃべるかとか決めてきてないんですよね」「あ、山納さん大丈夫です。好きなこと10分間、一番最後にとってありますから。自由にしゃべってください」って。
みなさんの話を聞いていたら、看護婦さんの代表、学校の先生の代表、図書館の管理人の代表、主婦の代表。いろんな職種の代表として選ばれてきていました。そして経営者の代表が俺でした。経営者の代表として、今考えていることを自由に話してください。って。そのときBSのカメラが11台入ってNHK のニュースで、全国放送で。
俺がそのときに話した内容は今でも総理官邸のホームページに載ってます。
そのあと俺はスウェーデンとドイツに渡って、福祉と建築の勉強に行って、それで小渕総理にレポートを出して。そこから介護保険ができました。
俺がその10分間の間で何を話したかというと、例えばアメリカとかヨーロッパのエレベーターは、どのメーカーも全部同じ所に『上がる』ボタン『開く』ボタンがある。全部決まってる。でも日本は東芝もパナソニックもメーカーによって全部バラバラの場所にある。目が見えない人困るよね。という話。
それに、道路の段差の問題。ドイツは石畳で凸凹なのに、どこでも車いすで絶対に通れるようになってる。でも日本は段差だらけ。駅前とか全部ロータリーになっていて車椅子なんかどうしようもない。これじゃ全然不便だし、松葉杖ついてたら本当に違うバス停に行くしかないんだ。という話をしました。それで、スウェーデンとドイツで福祉の勉強をしてこいと言われて、それで本当にそうでしたってレポートを提出しました。
それから、ドイツもスウェーデンも、99パーセントの高校生はボランティア活動したことがあるっていう国でした。だから教育が違う。知らないおばあちゃんがバスを降りようとしたら、つり革つかまってカップルで話してた高校生が、話をやめておばあちゃんの手をとって降ろしてあげる。そういう国。ドイツもスウェーデンも。だから教育が間違ってるって、思いっきりストレートに言っちゃったからその辺り全部放送カットでした。
エレベーターの話のところで、小渕総理がなるほど、って。「今年初めて日本で初の車椅子の国会議員が誕生しました。彼のために今スロープ作ったり総理官邸も直してるんだよ」っていう話をしてくれた。
残念ながら、介護保険ができて、そのあとすぐ小渕総理はお亡くなりになって…。21世紀日本の構想はあの1回で終わりになった。
そして、俺の人生も高田の馬場のじいちゃんの予言通り、次のステージに向かったのです。
つづく
005 独立して電気屋開業。わずか3年で栃木県ナンバー2の売上達成!〜俺がお金を捨てたわけ
俺が23歳で初めて起業したのが“家のお医者さん”でした。軽トラ一台とプレハブ小屋の事務所にワープロとコピー機が一台づつ。栃木県の茂木(もてぎ)っていう5000世帯しかない町でした。
そこでワープロでちらし作ってコピー機でだーっとコピーして頑張って5000世帯にチラシ配りしました。全部一人で。
プレハブ小屋を父ちゃんに手伝ってもらって実家の駐車場をつぶして作って、それが事務所だったんです。もう一か八かやるしかないって思ったから頑張りました。
もう父ちゃんも反対しなかったですね、さすがに。
そのプレハブ小屋も中古のやつを父ちゃんの知り合いの大工さんが余ってるからって持ってきてくれたものでした。
筋交いのバツの鉄がこうなっててペコペコしたトタンのプレハブ小屋。ちょっと錆びてて。
それで軽トラ1台でチラシ配りして頑張って。
勝算とか事業計画とかまったくなかったけど、俺には間違いなくうまくいくっていう自信がありました。なぜか。高田馬場のじいちゃんが言ったから。その人のおかげでその後の人生も一か八かのときに必ず頑張ってこられました。不安になってても何にも前に進まないってことは分かったし。何でもやっちゃったらうまくいくんです。俺の場合は10個のうち9個失敗してきてるんですけどね。でももし、やらなかったら大学卒業したやつに負けるって思ってました。とにかくね、どうしても勝ちたくって、その頃は俺20代で負けず嫌いで。その思いが人一倍強かったんですね。
起業するとき、父ちゃんはもう反対しなかったけど、周りは結構反対してきてて、でも俺は人の言うこととか全然気にしてない。俺がやりたいこととまったく同じ条件で同じことをやったことがあるヤツの意見しか聞かない。それ以外は誰の言うことも聞かない。俺は自分が将来世の中変えるだろうって思ってたから。俺がそう思えたのは高田馬場のじいちゃんのおかげなんです。
いい子でいたら世の中絶対変えられないと思ってました。だから人から言われることとか批判だとか、そんなことどうでもいいって思っていたんですね。そんなことはどうでもいいから自分のやりたいことをやろうと決めていました。それでそれやったら面白いんだやっぱり。毎日いろんな人の家に行って。で、最初から500人ぐらいのお客さんがついてくれました。
5000世帯しかない町の500人。みんな本当に困ってたんです。じいちゃんばあちゃんが家でポツンと留守番していたんですね。
困ってるんですよお年寄りが。家でひとりぼっちで。だけど疲れて帰ってくる息子夫婦は何もしてくれない。だって仕事で本当に疲れてるんです。家にやっと帰ってきてももう何もできないくらい疲れてる。だから電話が鳴りっ放しでした。開業したのが23歳で、3年目に街の中に店を出しました。
その時までずっと従業員は俺一人だったんですけど、なんとその26歳のときにプレハブやめて、店作るってときに、俺と同じ大学行って卒業したやつを雇ったんです。
そいつも変わったやつで、大学卒業したのにバイク屋にいたんです。
バイクが大好き。機械いじりが大好き。車もバイクもマシンが大好き。
それ大学に行く意味あるのかな。
街に店を作る直前ぐらいがもう、すごく忙しくて電話鳴りっ放しで間に合わなくなって。大学のときに友達になったそいつをたまに「日曜日バイト来てくんねぇ?」って頼んでたんですね。
3日しか大学行ってないのに何で友達かというと。
そいつとは高校が同じだったんですね。ずっと全然仲良くなかったんですどね。だけど声かけたらバイトしてくれて。「おもしれえなこういうのも」って言ってくれました。だから「じゃあ今度店作るからうちで正社員になんねえか」って誘ったんですね。
従業員が一人増えたら、そこからまたさらに忙しくなんですよね。人が増えると倍の仕事がこなせるようになるからさらに忙しくなる。事務員雇わなくちゃ事務処理が全然間に合わなくて。でも事務員ってなんか雇うのもったいないと思ってました。だって稼いでくるわけじゃないし仕事するわけじゃない。だから店を作ろうと思ったんです。事務員に接客をさせようって。それで、その建物の中に電気屋さんとパソコンの修理屋さんと携帯電話屋さんを始めました。そしたらまたどんどん仕事が忙しくなって、今度は学校からも仕事が来るようになりました。学校とか病院とか銀行とかの大きな仕事が入るようになったんです。
そこのオープニングセレモニーのときにやっぱりまたチラシ作って頑張って配ったんですね。そしたら3日間の売上900万でした。全部電気製品。テレビとか洗濯機とか冷蔵庫とか。
そこの店を作ったときの借金の金額が1300万だったので、もうほぼ大丈夫。これ頑張れると思いました。それで頑張っていったら気づいたときに顧客数が1500世帯になってました。
5000世帯のうち1500世帯。シェア30パーセント。
町の3割超えた瞬間からその町に“あったらいいな”じゃなくて“なくては困る”店になるって言われてます。
そうなると、盆踊りの提灯付から何から何まで頼まれるようになりました。売上がどんどん上がって栃木県で2番目の売り上げになっちゃったんです。
あらすげえことになったと思って。ちょうどその頃、21世紀日本の構想っていうメンバーを集めるって小渕総理が言い出したんです。
つづく