山納銀之輔

自然界に寄り添って生きろ!全てを失くしても大丈夫!世界は大きい!

005 独立して電気屋開業。わずか3年で栃木県ナンバー2の売上達成!〜俺がお金を捨てたわけ

俺が23歳で初めて起業したのが“家のお医者さん”でした。軽トラ一台とプレハブ小屋の事務所にワープロコピー機が一台づつ。栃木県の茂木(もてぎ)っていう5000世帯しかない町でした。

 

そこでワープロでちらし作ってコピー機でだーっとコピーして頑張って5000世帯にチラシ配りしました。全部一人で。

プレハブ小屋を父ちゃんに手伝ってもらって実家の駐車場をつぶして作って、それが事務所だったんです。もう一か八かやるしかないって思ったから頑張りました。

もう父ちゃんも反対しなかったですね、さすがに。

そのプレハブ小屋も中古のやつを父ちゃんの知り合いの大工さんが余ってるからって持ってきてくれたものでした。

筋交いのバツの鉄がこうなっててペコペコしたトタンのプレハブ小屋。ちょっと錆びてて。

それで軽トラ1台でチラシ配りして頑張って。

勝算とか事業計画とかまったくなかったけど、俺には間違いなくうまくいくっていう自信がありました。なぜか。高田馬場のじいちゃんが言ったから。その人のおかげでその後の人生も一か八かのときに必ず頑張ってこられました。不安になってても何にも前に進まないってことは分かったし。何でもやっちゃったらうまくいくんです。俺の場合は10個のうち9個失敗してきてるんですけどね。でももし、やらなかったら大学卒業したやつに負けるって思ってました。とにかくね、どうしても勝ちたくって、その頃は俺20代で負けず嫌いで。その思いが人一倍強かったんですね。

 

起業するとき、父ちゃんはもう反対しなかったけど、周りは結構反対してきてて、でも俺は人の言うこととか全然気にしてない。俺がやりたいこととまったく同じ条件で同じことをやったことがあるヤツの意見しか聞かない。それ以外は誰の言うことも聞かない。俺は自分が将来世の中変えるだろうって思ってたから。俺がそう思えたのは高田馬場のじいちゃんのおかげなんです。

 

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いい子でいたら世の中絶対変えられないと思ってました。だから人から言われることとか批判だとか、そんなことどうでもいいって思っていたんですね。そんなことはどうでもいいから自分のやりたいことをやろうと決めていました。それでそれやったら面白いんだやっぱり。毎日いろんな人の家に行って。で、最初から500人ぐらいのお客さんがついてくれました。


5000世帯しかない町の500人。みんな本当に困ってたんです。じいちゃんばあちゃんが家でポツンと留守番していたんですね。

困ってるんですよお年寄りが。家でひとりぼっちで。だけど疲れて帰ってくる息子夫婦は何もしてくれない。だって仕事で本当に疲れてるんです。家にやっと帰ってきてももう何もできないくらい疲れてる。だから電話が鳴りっ放しでした。開業したのが23歳で、3年目に街の中に店を出しました。

 

その時までずっと従業員は俺一人だったんですけど、なんとその26歳のときにプレハブやめて、店作るってときに、俺と同じ大学行って卒業したやつを雇ったんです。

そいつも変わったやつで、大学卒業したのにバイク屋にいたんです。

バイクが大好き。機械いじりが大好き。車もバイクもマシンが大好き。

それ大学に行く意味あるのかな。

 

街に店を作る直前ぐらいがもう、すごく忙しくて電話鳴りっ放しで間に合わなくなって。大学のときに友達になったそいつをたまに「日曜日バイト来てくんねぇ?」って頼んでたんですね。

3日しか大学行ってないのに何で友達かというと。

そいつとは高校が同じだったんですね。ずっと全然仲良くなかったんですどね。だけど声かけたらバイトしてくれて。「おもしれえなこういうのも」って言ってくれました。だから「じゃあ今度店作るからうちで正社員になんねえか」って誘ったんですね。

従業員が一人増えたら、そこからまたさらに忙しくなんですよね。人が増えると倍の仕事がこなせるようになるからさらに忙しくなる。事務員雇わなくちゃ事務処理が全然間に合わなくて。でも事務員ってなんか雇うのもったいないと思ってました。だって稼いでくるわけじゃないし仕事するわけじゃない。だから店を作ろうと思ったんです。事務員に接客をさせようって。それで、その建物の中に電気屋さんとパソコンの修理屋さんと携帯電話屋さんを始めました。そしたらまたどんどん仕事が忙しくなって、今度は学校からも仕事が来るようになりました。学校とか病院とか銀行とかの大きな仕事が入るようになったんです。

 

そこのオープニングセレモニーのときにやっぱりまたチラシ作って頑張って配ったんですね。そしたら3日間の売上900万でした。全部電気製品。テレビとか洗濯機とか冷蔵庫とか。

 

そこの店を作ったときの借金の金額が1300万だったので、もうほぼ大丈夫。これ頑張れると思いました。それで頑張っていったら気づいたときに顧客数が1500世帯になってました。

5000世帯のうち1500世帯。シェア30パーセント。

町の3割超えた瞬間からその町に“あったらいいな”じゃなくて“なくては困る”店になるって言われてます。

そうなると、盆踊りの提灯付から何から何まで頼まれるようになりました。売上がどんどん上がって栃木県で2番目の売り上げになっちゃったんです。

あらすげえことになったと思って。ちょうどその頃、21世紀日本の構想っていうメンバーを集めるって小渕総理が言い出したんです。

 

つづく